「民主がためらえば、独裁が動く──東アジア社会の行動課題」
2025年6月11日
アリック・リー
レイディー・リバティー香港 代表理事
East Asia Democracy Forum
東京池袋
本フォーラムは、私にとって立ち止まり、これまでの歩みを振り返り、そしてこれからの方向性を考える貴重な機会です。とりわけ、地域全体で民主主義の声が弱まりつつあり、市民社会の空間がますます脆弱になっている現在、この場の意義は非常に大きいと感じています。
本日は、香港の自由がいかにして失われたのか、その過程をお話ししたいと思います。それは力によってだけではなく、沈黙によっても奪われたものでした。そして何より、その喪失が私たちに示した「レジリエンス(回復力)」の意味、そして東アジアにおいて私たちが共に築けるものについてお伝えしたいと思います。
1 │ 語られる前から破られていた約束
香港の自由の崩壊について語るとき、人々はしばしば2020年を起点とします。国家安全維持法が突如として導入され、社会全体が一変した年です。または、2019年を思い浮かべるかもしれません。街頭が傘と催涙ガス、そして「自由を」と叫ぶ声で埋め尽くされた年です。
しかし、私にとってその物語はもっと前に始まっていました。1982年――ロンドンと北京が香港の1997年以降の行方を決めるために交渉の席についた年です。けれども、そこに香港人の席は用意されていませんでした。北京は最初から排除を明言し、ロンドンも静かに事を収めたいがために同調したのです。
当時、香港大学が世論調査を実施しました。広く報じられることはありませんでしたが、85%以上の市民が「中国への返還を望まない」と答えていました。しかし、その声は無視され、結果は棚上げにされました。二つの政府が、当事者である市民に耳を傾けるふりすらせず、私たちの運命を決めてしまったのです。
こうして生まれたのが「一国二制度」という言葉でした。それは約束であり、保障であるはずでした。けれども実際には、私たち自身が書き込んだものではなく、外から与えられたスローガンにすぎませんでした。
そして重要なのは――人々を未来から締め出したとき、彼らは忘れません。むしろ、記憶します。そして組織化します。あの最初の排除――「あなたたちは重要ではない」と告げられた経験が、導火線に火をつけました。その火花はすぐには爆発しませんでしたが、ゆっくりと燃え続けました。2003年の50万人デモから、2014年の雨傘運動、そして2019年の蜂起まで――そのすべてを、あの交渉の場にあった沈黙に遡ることができるのです。
本来なら、その物語はそこで終わってもおかしくありませんでした。失望が無関心に変わるだけだったかもしれません。未来から締め出されれば、諦めてしまうのも当然だからです。
しかし、香港人はそうしませんでした。希望を失うのではなく、苛立ちを燃料に変えたのです。そしてその後の30年間、香港はアジアで最も活発で創造的な市民社会の一つを築き上げていきました。
1989年、天安門広場に戦車が押し寄せたとき、香港の街頭もまた人々で埋め尽くされました。彼らは単に歴史を傍観していたのではなく、そこに自ら身を投じたのです。
「中国における愛国民主運動を支持する香港市民の連合」という草の根団体が立ち上がり、資金を集め、公開イベントを企画し、さらには中国の活動家を逃がすためのチャーター便まで手配しました。彼らは北京の学生たちの声を翻訳し、世界に向けて発信したのです。
皮肉なことに、香港人が国際社会において初めて確かな位置を獲得したのは、自分たち自身について語ることでではなく、中国本土の民主化を支えることでありました。
この「外に目を向け、つながりを築く精神」はその後も消えることはありませんでした。そこから、一つのエコシステムが形づくられていったのです。
教員組合は生徒に「権力を問い直す方法」を教え、弁護士会は深夜の警察署にまで足を運び、拘束された市民にボランティアで法的支援を提供しました。ソーシャルワーカーは逮捕者家族に心理的支援を行いました。
そして毎年6月4日、ビクトリア・パークは特別な空間となりました。それは単なる追悼式ではなく、一種の「青空市民広場」となったのです。ジャーナリスト、学者、芸術家、高校生がろうそくの光の下に集まり、人権について語り合いました。そこで人々は困難な問いを投げかけ、互いに学び合い、より大きな共同体の一員であることを実感したのです。
私たちがそこで学んだのは――完全な民主制を持たない都市であっても、民主的に振る舞うことは可能だということでした。
香港の市民社会は、国連特別報告者に嘆願書を提出し、UPR(普遍的定期審査)の報告を作成し、海外の議会にロビー活動を行いました。時には一晩で法律文書を翻訳し、海外の記者が現地の実情を追えるようにしました。
表面的には香港はビジネス拠点に見えました。しかし、その内側では、市民が「政治は政治家に任せておけない」と決断し、自ら担う主体となっていたのです。
2│断頭台が落ち、世界はあくびをする
ご存じのとおり、このエコシステムは長くは続きませんでした。2020年に国家安全維持法が施行されたとき、それはまるで断頭台の刃が落ちてきたかのようでした。
数十年にわたり活動してきた団体――労働組合、アドボカシー団体、学生ネットワーク――が次々と閉鎖を余儀なくされました。人々は逮捕され、一部は逃亡し、また一部は公的生活から姿を消しました。
かつては独立系新聞が国によっては存在する数を超えるほど発行されていた都市が、いまや児童向け絵本すら「政治的すぎる」として禁じられるようになったのです。変化は迅速で、計画的で、そして破壊的でした。
しかし、私が強調したいのは、崩壊の理由が「香港が弱かったから」ではないという点です。それは「孤立」していたからです。弾圧が始まったとき、地域的な支援の仕組み、迅速に連携できるネットワークが存在しなかったのです。
ここから先は、物語が単に香港の話にとどまらなくなります。なぜなら北京がついに斧を振り下ろしたとき、世界は気づきはしましたが、実際にはほとんど行動しなかったからです。
各国政府からは声明が出されました。「深い懸念」「重大な遺憾」といった言葉が記者会見で飛び交いました。国連人権理事会や国際NGOも次々と声明を出しました。
しかし、いずれも前に進むことはできませんでした。なぜなら中国とロシアが、あらゆる場面で実効的な行動を阻止したからです。
その裏側で、経済的な優先事項が静かに前面に出てきました。グローバル化の数十年は、民主国家を権威主義的市場と深く結びつけていました。企業は「サプライチェーンを乱すな」とささやき、議員たちはうなずきました。
その結果、香港の崩壊は誰かの貿易アジェンダの脚注に過ぎないものとなりました。危機は一度は注目され、分析され、そしてほとんどは棚に戻されてしまったのです。
3│民主の空席、権威の迅速――東アジアの繰り返される構図
これは香港だけの話ではありません。同じパターンが地域全体で繰り返されています。
ロヒンギャ虐殺やミャンマーの軍事クーデターを思い起こしてください。カンボジアで市民空間が急速に縮小している状況や、台湾に絶えず押し寄せる偽情報や干渉を思い浮かべてください。
いずれの事例においても、そこには共通するリズムがあります。
民主主義は語る。権威主義は行動する。
民主国家は声明を発表し、記者会見を開き、時間のかかる調査を始めます。
一方、権威主義国家は包括的な法律を一気に制定し、警察を動員し、批判者を数日のうちに拘束します。
そして人々はその違いを敏感に察知します。
自らの共同体が攻撃を受けているとき、人々が求めているのは「完璧な決議」ではありません。
ただ一つ――「手遅れになる前に誰かが行動してくれるのか」という問いに対する答えです。
しかし、あまりにも多くの場合、その答えは「いいえ」であるかのように感じられるのです。
もちろん、この「ためらい」には政治的要因だけではなく、地理的要因もあります。
東アジアに暮らす私たちにとって、中国は抽象的な外交課題ではなく、隣国であり、貿易相手国であり、そしてますます現実的な安全保障上の脅威となっています。
この近接性は常に緊張を生みます。声を上げれば報復を受ける。沈黙すれば原則が溶けていく。その狭間で各国政府は神経質な外交を続けています。権威主義の影響がすぐ隣で拡大しているにもかかわらずです。
その間に、中国は自信と迅速さをもって動いています。数か月でインフラを建設し、情報の流れを掌握し、交渉ルールを自国だけでなく国境を越えて書き換えています。
この対比――慎重で遅い民主主義と、果断で迅速な権威主義との対比――は、人々の「民主主義モデル」に対する信頼を徐々に蝕んでいきます。
そしてここに最大の危険があります。もし人々が「民主主義は価値だけでなく結果ももたらす」と信じられなくなったとき、彼らは別の道を探し始めるからです。
4 │ 絶望が扇動者と出会うとき
この「民主主義への信頼の危機」の中で、別の現象が起こります。私たちは香港社会においても、そして他の場面でもそれを目の当たりにしました。
それは――絶望が奇妙な「英雄」を生み出すという現象です。
人々が民主主義の世界から見放されたと感じるとき、彼らは誰でもよいから「権威主義に立ち向かっているように見える存在」を探し始めます。
そのため、私が見たのは、多くの香港人がアメリカの対中関税や強硬な言葉に喝采を送る姿でした。彼らがトランプのすべてを支持していたわけではありません。ただ、他の国々が「お悔やみ」や「懸念」の言葉ばかりを並べていたときに、少なくとも彼は「何かをしているように」見えたからです。
しかし、不都合な真実があります。そのような政策のいくつかは、アジアの最も脆弱な人々を傷つけてもいたのです。
例えば、2018年にはバングラデシュにおけるロヒンギャ難民支援の保健所が数十か所閉鎖されました。米国の人道援助が大幅に削減されたからです。
つまり、香港の一部の人々が「対中強硬姿勢」を祝っている一方で、別の場所では誰かが薬や住まい、食料を失っていたのです。
ここで私たちは自問しなければなりません。他者――しかもさらに弱い立場の人々――が犠牲になって初めて実現する「正義」に、本当に意味があるのか?
なぜなら、この「自分が勝てないなら、せめて敵を負けさせたい」という発想こそが、ゼロサム政治の論理であり、そして権威主義体制が弾圧を正当化する際に用いる論理でもあるからです。
もちろん、この部屋にいる皆さまは、理念としては全員同意されるでしょう。私たちは連帯を信じ、人間の尊厳を信じ、選択的ではなく包摂的な正義を信じています。
しかし同時に、現場の生の声を無視することはできません。すべてを失った人々――友人も、自由も、未来も――は、国際外交の言葉を必ずしも使わないのです。彼らは怒り、傷ついています。
市民社会が指導力を発揮したいのであれば、その声に耳を傾けなければなりません。政策立案者や学者だけでなく、一般市民の生の感情にも耳を澄ます必要があります。
なぜなら、もし私たちがその痛みを無視すれば、別の誰かが必ずそれを「武器化」するからです。
私たちの課題は、この憤りを建設的なものへと転換することです。復讐でもなく、沈黙でもなく。共感に根ざした共通の抵抗へと変えていくのです。しかもそれは自国の人々だけでなく、この地域で同じように苦しんでいる他者に対しても向けられるべきなのです。
5│ 東アジア市民社会への三つの課題
では、代替案とは何でしょうか。
私は、市民社会の担い手であれば誰でも取り組める「三つの課題」を提案します。予算や活動分野、国籍にかかわらず実行可能なものです。
第一に、市民による民主主義の主体性を再び呼び起こすこと。
投票だけでは私たちを救えません。
香港では、毎年の6月4日のキャンドル・ヴィジル(追悼集会)が、公園をアジア最大の「青空市民タウンホール」に変えました。
ティーンエイジャーが教授と歴史を議論し、屋台の人々がたこ焼きで保釈金を集め、祖母たちがゲーマーと並んで署名に応じる――そうした光景がありました。
この儀式は、「政治とはスクリーン越しに眺めるものではなく、実際にその場に参加するものだ」ということを私たちに思い起こさせてくれました。
私たちは新しい「キャンドルの教室」を各地につくる必要があります。月例の地域フォーラム、市民陪審による予算審議、駅前の臨時ファクトチェック・ブースなど――ほとんど費用はかからずとも、「公共の場は市民のものである」というメッセージを発することができます。
東京では、明治学院大学の「難民法クリニック」が法学部の学生と難民申請者を結びつけています。こうしたプロジェクトは、抽象的な権利を生きた実践へと変え、市民に「国家は遠い地主ではなく、自分たちが部分的に所有する住所なのだ」と思い出させます。
第二に、運動間の協働を織りなすこと。
弁護士は権利を守ります。しかし、その物語を伝えるにはジャーナリストが必要であり、トラウマを癒すには心理士が必要であり、生計と自由が両立可能であることを示すには農業協同組合が必要です。
チベット人、ウイグル人、香港人、台湾人、日本人、韓国人――私たちはそれぞれ異なる状況に直面していますが、同じ権威主義の「教科書」に基づく弾圧を受けています。
互いの闘いを脚注として扱うのではなく、共通の地域的物語の章として扱うべきです。そして、各国の異なるセクターに積極的に働きかけ、この物語を伝えていく必要があります。
第三に、市民社会そのものを民主化すること。
それは、会議やキャンペーンの枠を超え、より広範な市民と関わることを意味します。民主主義の価値を「上から目線で説く」のではなく、日常の関心に根ざした、共感的で親しみやすい対話を通じて取り組むことです。
大切なのは、舞台の上から理念を一方的に発信することではありません。双方向の対話を築き、聞くことと話すことを同じくらい重視し、人々が本当に不安に思っていることを学ぶことです。
市民社会がレジリエントであり続けるためには、「活動家」だと自認していない人々――それでも日々、権威主義の影響を受けて暮らしている人々――にとっても、身近で個人的で、感情に響くものでなければなりません。
6│ 必要な素材はすでに揃っている
朗報は、私たちが一から始める必要はないということです。
この地域にはすでにツールと人材が存在しています。
偽情報をマッピングする市民団体、アドボカシーを担う人材を育成するネットワーク、法的支援を調整する団体、そして亡命の地で歴史を記録し続ける活動家たち。
台湾から韓国へ、東南アジアから日本の大学まで――レジリエントな市民ネットワークのための基盤はすでに存在しています。
私たちに必要なのは、それらを結び付けることだけです。
7 │ 避難所から制度へ――共有可能な未来のための市民モジュール設計
私は建築を学んだ経験から、社会運動をエネルギーや情熱だけでなく、構造や使いやすさという観点から考えることがあります。
良いシステム設計とは、機能的であるだけでなく、適応可能で、再利用可能で、異なる文脈にも応答できるものです。
香港の市民社会を振り返ると、多くの取り組みが「再利用可能な形式」に基づいていたことが思い出されます。ショッピングモールでの展示会、バイリンガルのプレスリリース、学生主体の追悼集会、当番制を共有した法的支援ホットライン。
これらは孤立した行動ではなく、経験を通じて形づくられ、拡大・再利用を前提としたテンプレートでした。
私は、これらの経験を「モジュール化された資源」として整理することに価値があると考えています。つまり、他者が使えるシンプルで柔軟なガイドです。
例えば:
リスクの低い集会を企画するための短いマニュアル
視覚的アドボカシー・キャンペーンを立ち上げるための枠組み
各国の議員に働きかけるためのサンプルレター
地域のサポートチームを立ち上げるための基本的なチェックリスト
これらのツールはすでに何らかの形では存在しています。しかし散在していたり、非公式であったり、言語や文脈の違いからアクセスしづらかったりします。
それらをオープンでモジュール型のツールキットにまとめることで、地域の市民社会は、直面する課題により迅速かつ効果的に対応できるようになるでしょう。
私たちは、地域の仲間と協力して、共有可能で実践的なリポジトリを共創したいと考えています。それは私たちの集合的知識を反映し、国境を越えて応用され、市民の取り組みを支えるものとなるはずです。
8 │ 自由は孤独から崩壊する
権威主義は、人々が孤立を感じるときに最も速く広がります。自由は、孤独から崩壊するのです。
もし私たちが抵抗の島々を結びつけ、「再び火を灯し、協働を織り、互いを守る」ことができれば、東アジアのどの活動家も、難民も、市民ジャーナリストも「自分のために立ち上がってくれるのは誰か」と悩む必要はありません。
答えはすでにあるからです。――私たち全員です。