香港の独立書店──形成の時代、1970年代から1990年代まで
1984年、香港RTHKのドラマ『獅子山下』「落雨擔遮」より。米雪と喬宏が共演し、往年の田園書屋の店内に、当時の香港の空気が静かに息づく。
【連載にあたって】
2026年7月15日、香港ブックフェアの初日、香港警察国家安全処は独立書店「留下書舍」と「田園書屋」を捜索し、店主や店員ら5人を「扇動の意図のある行為」の疑いで逮捕した。1976年に開業し、香港の「楼上書店」文化を切り拓いてきた田園書屋は、その後、賃貸契約の満了をもって半世紀の歴史に幕を下ろすことを明らかにした。一方、香港域外に目を向ければ、東京を含む世界各地で、香港出身者による書店が新たに生まれつつある。本連載は全四回にわたり、香港の独立書店がどのように生まれ、何を扱い、どのような力と向き合ってきたのかをたどる。それは一つの小売業の盛衰史ではない。誰が本を選び、誰がそれを読むのかという、言論と読書の自由をめぐる歴史である。
連載目次
第一回 香港の独立書店の形成――1970年代から1990年代まで
第二回 香港の独立書店の独自性――選書と文化空間
第三回 香港の独立書店と中国大陸――政治書の流通と銅鑼湾書店事件
第四回 香港国安法後の独立書店――経営環境の変化と海外への広がり
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1990年代の香港では、繁華街の雑居ビルに入り、エレベーターで上階へ向かうと、小さな書店が現れることがあった。路上から店内を見ることはできず、看板も目立ちにくい。それでも文学、歴史、哲学、社会科学などの本を求め、住所を調べて訪れる読者がいた。香港で「楼上書店」と呼ばれた、こうした書店はなぜ生まれたのだろうか。その背景には、東アジアの政治状況、1970年代以降の香港社会の変化、そして高い家賃という都市の事情があった。
当時、こうした店が一律に「独立書店」と呼ばれていたわけではない。しかし、後に香港の独立書店を特徴づける専門的な選書、固定客との関係、書店と文化活動の結びつきは、この時期に次第に形づくられていった。
一 中国・台湾の言論統制と香港
1970年代初め、中国大陸はまだ文化大革命の最中にあった。出版機関は国家の管理下に置かれ、文革初期には出版活動そのものがほぼ停滞した。比護遥が毛沢東時代の「読書規範」について論じているように、中国共産党による統制は、どの本を出版するかだけでなく、人々が何を読み、それをどのように理解すべきかという領域にも及んでいた[1]。1971年頃から一部の出版活動は回復し始め、文革終結後、とりわけ1978年以降、旧作の再刊や新刊の出版が本格化した。しかし、政治的な審査がなくなったわけではない。
一方、台湾には活発な商業出版や文学出版が存在していたが、国民党政権の戒厳体制下にあり、政治的な言論は厳しく制限されていた。台湾の国家人権博物館が整理した当時の規則を見ると、新聞、雑誌、書籍だけでなく、海外から輸入される出版物も検査の対象だった[2]。中国共産党の指導者や幹部の著作、中国大陸で刊行された書籍の流通も厳しく制限され、政権に反対する言論や政治運動に関係する出版物は発禁処分を受けた。戒厳令は1987年に解除されたが、出版法に基づく審査はその後も残った。
英国の植民地だった香港も、政治的な検閲と無縁ではなかった。植民地政府は言論や集会を取り締まる広い権限を持ち、1970年代にもその権限は残っていた。しかし、中国大陸や戒厳下の台湾に比べれば、書籍の輸入、販売、閲覧にはより広い余地があった。香港の書店では、台湾で出版された文学や思想書、中国大陸では入手しにくい作品、海外で刊行された中国語書籍など、出所も立場も異なる本を同じ場所で扱うことができた。香港の特徴は、あらゆる規制から自由だったことではない。異なる政治体制と検閲制度によって中国語圏が分断されていた時代に、さまざまな本が出会う比較的開かれた場所だったことである。
二 1970年代の社会変化と新しい読者層
本を販売できる環境があるだけでは、書店文化は成立しない。それを読む人々も必要だった。1970年代の香港では経済発展が続き、教育を受ける人も増えた。1971年には無料の初等教育が実施され、1978年には初等・前期中等教育を合わせた九年間の無料教育が導入された[3]。教育の普及は、若い読者層が拡大する社会的な基盤になった。
戦後に香港へ移住した人々のなかには、この都市を定住先というより、避難先や一時的な滞在地として捉える人も少なくなかった。しかし、香港で生まれ育った世代の間では、この都市を自分たちが暮らす社会として意識する傾向が次第に強まった。
同じ時期には、中国語の公用語化を求めた中文運動、尖閣諸島(釣魚台列島)をめぐる保釣運動、学生運動などが起こった。これらをそのまま香港の本土意識の発生と結びつけることはできない。保釣運動には中国民族主義や反帝国主義の性格があり、学生の間でも、中国を重視する国粋派、香港の社会問題に取り組む社会派、そのほかの左翼思想など、異なる立場が競い合っていた。社会全体が政治化したわけでもない。それでも、こうした運動は一部の青年や学生が公共問題に参加する経験を広げ、中国と世界に加え、香港の労働、福祉、教育、文化を考える契機にもなった。
その結果、文学、歴史、哲学、政治、社会科学など、学校の教科書や一般紙だけでは得にくい知識を求める読者が徐々に育った。政治書だけでなく、現代文学、詩、芸術、映画、西洋思想の翻訳などへの関心も広がった。こうした新しい読者の存在が、小規模で専門的な書店を支える条件の一つになった。
香港・銅鑼湾の街角。色鮮やかな看板がひしめく雑居ビルの一角に、「銅鑼灣書店」へと導く小さな案内板が掲げられている。
三 高い家賃と「楼上書店」
もう一つの背景は、香港の都市構造である。経済発展に伴い、繁華街の路面店舗の家賃は上昇した。利幅が限られ、大量販売も難しい本を扱う小規模な書店にとって、人通りの多い場所に路面店を構えることは容易ではない。そこで、路面より家賃の低い商業ビルや雑居ビルの上階に店を構える楼上書店が現れた[4]。中心街の利便性を保ちながら、賃料を抑える方法でもあった。
上階にあることは、商売の上では不利である。通行人が偶然入店することは少なく、読者は住所を調べ、わざわざエレベーターや階段で店を訪ねなければならない。そのため書店は、人通りよりも選書、価格、評判によって読者を引きつける必要があった。どの本を置くかという店主の判断が店の個性を作り、固定客との関係が経営を支えたのである。楼上書店には漫画、参考書、廉価版を中心とするところもあり、上階にあること自体が「独立」を意味したわけではない。それでも、この形態から、後に独立書店と呼ばれる書店文化の重要な一部が育っていった。
四 田園書屋と青文書屋
その異なる可能性を示すのが、田園書屋と青文書屋である。1976年に開業した田園書屋は、人文・社会科学や文学を中心とする専門的な選書で知られていた[4]。香港版に加えて台湾版の書籍を多く扱い、一般の書店では見つけにくい本も棚に並べた。読者は偶然立ち寄るのではなく、田園なら何か見つかると期待して店を訪れた。規模の小さな書店でも、独自の選書と価格を通じて固定客を持つことができたのである。
青文書屋は、書店であると同時に小規模な出版社でもあった。商業的な成功を期待しにくい純文学や新人作家の作品も刊行し、也斯、黄碧雲、葉輝ら香港の作家の本を世に送り出した[5]。店頭には文化団体の刊行物や活動案内も置かれ、若い読者が香港の文学や文化活動を知る窓口にもなった。青文の特徴は、頻繁に催しを開いたことよりも、何を本として残すかを自ら判断し、出版まで引き受けた点にあった。独立書店が完成した本を販売するだけでなく、地域の文化生産にも参加できることを示したのである。
この二店だけで当時の小型書店全体を代表させることはできない。それでも田園書屋からは、専門的な選書によって読者と結びつく書店の姿が見える。青文書屋からは、書店と出版を結びつけ、新しい作品を世に出す姿が見える。1990年代には、こうした楼上書店は、少なくとも学生や愛書家、文化関係者の間で、香港の都市文化を特徴づける存在の一つになっていた。
その形成を支えた主な条件は、両岸に比べて緩やかだった書籍流通の環境、教育の普及と公共問題に関心を持つ読者の増加、そして高い家賃に対応する楼上という空間だった。しかし、規模が小さいことや、ビルの上階にあることだけで、書店が「独立」しているとは限らない。独立書店の「独立」とは、誰がどの本を選び、どのような関係を読者や作者と築くのかという問題でもある。
(第二回「香港の独立書店の独自性――選書と文化空間」に続く)
引用文献
[1] 比護遥『近現代中国と読書の政治――読書規範の論争史』東京大学出版会、2024年。
[2] 國家人權博物館(台湾)「臺灣省戒嚴期間新聞紙雜誌圖書管制辦法」國家人權記憶庫。https://memory.nhrm.gov.tw/NormalNode/Detail/52
[3] 香港地方志中心「9月開學 回顧香港由「卜卜齋」到普及教育」。https://www.hkchronicles.org.hk/香港志/社會/9月開學回顧香港由卜卜齋到普及教育
[4] 《大學線》(香港中文大學新聞與傳播學院)「與時代同行:三代獨立書店見證香港變遷」。https://ubeat.com.cuhk.edu.hk/170_與時代同行三代獨立書店見證香港變遷/
[5] 鄭明仁「青文叢書成搶手貨」am730。https://www.am730.com.hk/column/新聞/青文叢書成搶手貨/263011
※【連載にあたって】に記した2026年7月の書店捜索については、端傳媒「香港書展首日國安再行動:留下書舍、田園書屋被搜,消息指拘5人涉煽動罪」(2026年7月15日)等を参照。