香港の独立書店と中国大陸――政治書の流通と銅鑼湾書店事件

【連載にあたって】

2026年7月15日、香港ブックフェアの初日、香港警察国家安全処は独立書店「留下書舍」と「田園書屋」を捜索し、店主や店員ら5人を「扇動の意図のある行為」の疑いで逮捕した1976年に開業し、香港の「楼上書店」文化を切り拓いてきた田園書屋は、その後、賃貸契約の満了をもって半世紀の歴史に幕を下ろすことを明らかにした。一方、香港域外に目を向ければ、東京を含む世界各地で、香港出身者による書店が新たに生まれつつある。本連載は全四回にわたり、香港の独立書店がどのように生まれ、何を扱い、どのような力と向き合ってきたのかをたどる。それは一つの小売業の盛衰史ではない。誰が本を選び、誰がそれを読むのかという、言論と読書の自由をめぐる歴史である。

連載目次

第一回 香港の独立書店の形成――1970年代から1990年代まで

第二回 香港の独立書店の独自性――選書と文化空間

第三回 香港の独立書店と中国大陸――政治書の流通と銅鑼湾書店事件

第四回 香港国安法後の独立書店――経営環境の変化と海外への広がり

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 多様な香港の書店文化の一角には、中国大陸で正規の出版・流通経路から入手しにくい政治書をそろえ、大陸から来る読者を主な顧客とする店もあった。その市場を大きくしたのが、2003年に始まった中国大陸住民の香港への個人旅行だった。しかし、香港の書店で本を買えることと、それを大陸へ安全に持ち帰れることは同じではない。書籍と読者が境界を越えるにつれて、出版と書店をめぐる危険の意味も変わっていった。

一 「自由行」と大陸からの読者

 2003年、香港を訪れた中国大陸の旅行者が、書店で周恩来の晩年を扱った本や、1989年の天安門事件、いわゆる六四事件に関する本を探していた。VOAの当時の報道には、政府関係者や研究者、大学教員なども政治書を買いに来るという、書店側の証言が記録されている[1]。

 この年に始まったのが、中国大陸住民の香港への個人旅行を認める「自由行」である。制度は7月、まず広東省の四都市を対象に導入され、その後、対象地域が段階的に拡大された[2]。それ以前、大陸住民が観光目的で香港を訪れる場合、主に認可された団体旅行に参加する必要があった。自由行の導入後は、団体の日程に縛られず、自分で書店を探して訪れることが可能になった。観光と消費を促すための制度が、結果として大陸の読者が香港の情報空間に直接触れる機会も増やしたのである。

 当時、大陸で正式に出版、販売できなかった政治書の多くは、香港では政治的に敏感であるという理由だけで販売を禁じられてはいなかった。旅行者は書店や新聞販売店を訪れ、中国共産党の歴史、国家指導者の経歴やゴシップ、文化大革命、六四事件などに関する本を探した。2012年のVOAの報道は、大陸の旅行者が香港や台湾で政治書を買い求め、税関で没収される場合もあったこと、そして出版側がそうした需要に合わせて新刊を送り出していたことを伝えている[3]。

 ただし、香港で本を買えても、大陸側の検査で没収される可能性があり、郵送による販売も問題視された。それでも、身近な香港で大陸の書店から排除された情報を自分の目で見て選べる香港の独立書店という存在は、一部の読者にとって大きな意味を持った。

二 「禁書」には何が書かれていたのか

 ここでいう「禁書」は、大陸政府が公表した特定の一部書物を意味しない。大陸で正式な出版や流通を認められていない、あるいは政治的理由から実質的に入手困難な書籍を広く指す通称である。その内容は一様ではなかった。

 政治書を専門的に扱った書店兼カフェ「人民公社」の店主は、失脚した元総書記・趙紫陽の回想録のように、1980年代から90年代の高層政治の内幕を当事者の立場から伝える本を、店の中心に置いていた[4]。こうした本は、一時的なニュースに左右されず、長い期間にわたって読者の関心を得ていた。香港の書店は、大陸では公刊されていない証言や研究を、一般の読者が手に取れる形で提供していたのである。

 他方には、中国共産党指導部の権力闘争、汚職、家族関係、私生活などを刺激的に描いた本も多かった。政治事件や指導部の交代に合わせて短期間で作られ、出典が不明確なものや、真偽を確認できない「秘話」を売り物にする本もあった。人民公社の店主自身も、店に並ぶ政治書のすべてが信頼できるわけではないと認めている[4]。

 したがって、「大陸で禁止された本だから真実である」とは限らない。香港の禁書市場には、重要な研究や史料と、信頼性の低い読み物が同時に存在していた。しかし、本の内容が正確かどうかという問題と、誰がそれを出版し、読み、批判できるかという問題は分けて考える必要がある。この区別は、後に起きた銅鑼湾書店事件を理解する上で重要である。

三 銅鑼湾書店事件

 銅鑼湾書店は、香港島の商業ビルの二階にあった小さな書店で、大陸の政治や指導者に関する本を数多く扱っていた。大陸からの旅行者にもよく知られ、郵送による販売も行っていた。2015年10月から12月にかけて、この書店と関連出版社に関係する五人が相次いで消息を絶った[5]。

 五人が同じ場所で連行されたわけではない。出版者の桂民海はタイで消息を絶った。書店関係者の呂波と張志平は中国大陸滞在中に連絡が途絶えたとされる。店長の林栄基は10月24日、羅湖から深圳に入った後に拘束されたと、後に本人が証言している[6]。そして12月30日、書店経営者の李波が香港で突然姿を消し、後に大陸にいることが明らかになった。

 なかでも李波の事件が香港社会に強い衝撃を与えたのは、香港から正式な手続きを経て大陸へ移動した記録が確認できなかったためである。英国政府は2015年下半期の香港に関する報告書で、当時得られた情報から、李波は本人の意思に反して香港から大陸へ移されたと判断した。そして、これは中英共同声明の重大な違反であり、「一国二制度」を損なうものだと指摘した[7]。香港政府も後に、大陸の法執行機関には香港域内で法を執行する権限がないと改めて表明した[5]。

 中国大陸の警察当局は、関係者が許可を受けていない書籍を大陸の顧客に販売、郵送した「違法経営」に関与したと説明した。複数の関係者は大陸のテレビに登場し、販売への関与を認めた[5]。しかし、2016年6月に香港へ戻った林栄基は、これらの発言は準備された内容に従ったものだったと証言した。林によれば、拘束中は弁護士や家族への連絡を認められず、香港に戻された目的の一つは、書店の顧客資料を大陸側に渡すことだったという[6]。李波は林の説明の一部を否定しており、事件の全容には不明な点が残っている。それでも、香港の書店員と顧客の情報まで大陸側から追及されたという証言は、出版業界に深い恐怖を与えた。

四 書店から業界全体へ

 2016年1月には、数千人が書店関係者の解放と説明を求めて香港を行進した[8]。一方、書店や出版業界では、政治書を棚から外す動きが現れた。著者が原稿の公表をためらい、翻訳者が仕事を断り、印刷会社や取次業者が敏感な本を扱わなくなる。銅鑼湾書店事件による萎縮は、一軒の店にとどまらず、出版から印刷、流通、販売までの全過程に広がった[9]。

 人民公社の店主は2017年の取材で、事件後、大陸の客が香港の書店から遠ざかったと話している[9]。同店の売り上げは高い時期から大幅に減ったが、その背景には、事件の影響だけでなく、大陸からの旅行者の減少や消費力の低下もあった。

 2018年、人民公社は閉店した[10]。同店は香港で最後の「禁書店」ではなく、政府が閉店を直接命じた事実も確認されていない。売り上げの減少と赤字も報告されており、その原因を政治的圧力だけに求めることはできない。それでも、事件後の複数の取材からは、店主や出版関係者が扱う本と仕事上の危険を、以前より慎重に結びつけて考えるようになったことが読み取れる。

 香港の書店は長い間、境界を越えて本と読者が出会う場所だった。ところが銅鑼湾書店事件では、書籍だけでなく、書籍を扱う人を取り締まる力も境界を越えた。問題は、棚に並んだすべての本が真実だったかどうかではない。本の価値を吟味して配置し、それを読者に巡り合わせ、読むか否かの判断を読者自身に委ねる社会的空間を、誰がどのような手段で制限できるのかということである。2020年以後、この問題は、例外的な越境事件から、香港域内で適用される法律と行政執行が書店の日常を左右する問題へと、徐々に形を変えていく。

(第四回「香港国安法後の独立書店――経営環境の変化と海外への広がり」に続く)

引用文献

[1] "Mainland Chinese Visiting Hong Kong Buying More Banned Books," VOA News, 2003年10月22日。https://www.voanews.com/a/a-13-a-2003-10-22-19-mainland-67442762/384805.html

[2] 香港特別行政区政府旅遊事務署「個人遊計劃」および同署『個人遊計劃の評估報告』2014年。https://www.tourism.gov.hk/tc/visitor_ind.php

[3] 「陸客帶禁書入境 港台出新書迎合」VOA中文網、2012年7月12日。https://www.voachinese.com/a/mainland-chinese-buying-banned-books-from-hk-20120712/1403706.html

[4] Anthony Kuhn, "The Hong Kong Bookseller Who's Keeping 'Banned' Books On His Shelves," NPR, 2016年2月3日。https://www.npr.org/sections/parallels/2016/02/03/465284407/

[5] "Hong Kong's missing booksellers and 'banned' Xi Jinping book," BBC News, 2016年2月4日。https://www.bbc.com/news/world-asia-china-35480229

[6] 「【書商失蹤】被拘留八個月 林榮基經歷還原」香港01、2016年6月16日。https://www.hk01.com/社會新聞/26477/

[7] UK Foreign & Commonwealth Office, Six-monthly Report on Hong Kong: July to December 2015, 2016年2月。https://www.gov.uk/government/publications/six-monthly-report-on-hong-kong-july-to-december-2015

[8] "Thousands protest missing booksellers in Hong Kong," AP通信(PBS NewsHour掲載)、2016年1月10日。https://www.pbs.org/newshour/world/thousands-protest-missing-booksellers-in-hong-kong

[9] "China's banned books fade from Hong Kong," AFP通信(France 24掲載)、2017年7月20日。https://www.france24.com/en/20170720-chinas-banned-books-fade-hong-kong

[10] "Closure of last 'freethinking' Hong Kong bookshop signals end to 'One Country Two Systems' policy," AFP通信(France 24掲載)、2018年11月1日。https://www.france24.com/en/20181101-hong-kong-bookshop-peoples-books-banned-china-closes-censorship-xi-communist

※【連載にあたって】に記した2026年7月の書店捜索については、端傳媒「香港書展首日國安再行動:留下書舍、田園書屋被搜,消息指拘5人涉煽動罪」(2026年7月15日)等を参照。

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