鄒幸彤 陳情陳述(求刑前・口頭)

編集部より:2026年8月21日、香港市民支援愛国民主運動聯合会(支聯会)の元副主席である鄒幸彤氏を含む被告らに対し、香港高等裁判所は206ページに及ぶ有罪判決を下しました。本稿は、同氏がその判決を受け、求刑・量刑手続きの前に法廷で口頭にて述べた「陳情文」の全訳です。2026年5月19日に行われた最終弁論と対をなす記録として、氏の言葉が法廷の外へと届くよう、ここに全文を掲載します。


要旨

本陳情において、鄒幸彤氏は減刑や情状酌量を乞うことを明確に拒みます。206ページの判決は、要するに「民主を追求することは罪だ」と言うに等しく、そのような「法律」は暴政の同義語にすぎない ― 氏はそう論じます。信じるもののために謝罪することは、同じ信念を持つすべての人への侮辱であり、屠城の実行者すら謝罪していないのに、なぜ自分たちが謝るのか、と。もし法廷が本件を「情節重大」と判ずるならば、それは私たちが実際に何かを成し遂げたことの証しであり、賛辞として受け取ろう ― 氏の姿勢は最後まで一貫しています。「良心を裏切る人間になるくらいなら、犯罪者となる道を選ぶ」というその宣言をもって、氏は「未完の民主への道」を歩み続ける決意を、獄中から改めて示しています。

📄 本文の原文(中国語)および英訳は、鄒幸彤氏のPatreonにて公開されています: 「我的陳情文(Mitigation)」(Birdy - Hang Tung 鄒幸彤)


陳情陳述 ― 鄒幸彤

1. 206ページの判決文は、要するに、民主を追求することは罪だと言っているに他ならない。

2. いかなる政党であれ、国家の主権を私物のように取り扱い、自らこそが人民の選択だと自称し、自らこそが唯一の指導者だと自称し、そのうえで、一人ひとりに対して法律上の義務として、その自ら封じた王位を擁護することを要求する ― そのような、いわゆる「法律」なるものは、暴政の同義語にすぎないと、私は認めることはできない。

3. 独裁は誤りであり、民主は正しい ― これを信念と言わずして、いったい何と呼ぶのか。法廷と政府がいくら念仏のように「私たちは信念を裁いているのではない」と繰り返しても、変えられない事実がある。この判決の下では、「一党独裁の終結」の理念を信じる人には、もはや立つ場所がないのだ。このような「法律」の眼から見れば、私たちがこの思想を持つこと自体がすでに違憲であり、非法であり、原罪である。私たちが完全に正当なことを ― たとえば六四を悼むことを ― しているだけであっても、私たち自身の思想上の「不正確さ」ゆえに、それは犯罪となってしまう。

4. だが、法律は誰の思想も支配することはできない。支配できないだけでなく、法律が良心に敵対することに固執するならば、負けるのは法律の方であり、正統性を失うのもまた法律の方である。

5. 人には守るべき一線がある。法律も同じである。そして民主と独裁を分かつ一線は、その中で最も重要な一つである。なぜなら独裁の下に法の支配は存在しないからである。法廷が、「一党独裁の終結」という要求がなぜ生まれたのかという事実的な原因と善悪の判断を完全に脇に置き、ただ盲目的に政権の意志と、いわゆる「法を守る義務」を強調するならば、それは、ナチス・ドイツの下ではユダヤ人を虐殺する義務があると言うのと同じくらい荒唐無稽な行いであって、法律から公平を体現するその魂を失わせ、権力に駆使される傀儡へと堕落させるだけである。

6. ナチスの下で、そして極権の下で、幾度となく繰り返された惨劇を生み出したのは、まさにこの、是非を問わずただ服従するのみという態度である。そして今の法廷も、国家も、まさにその同じ危険な古い道を歩んでいる。それどころか、科学技術の進歩と国家の力の増大に伴い、国家が公認の「大国」となるにつれて、今の危険は当時以上に大きい。

7. 国民として、私たちには、国家権力を民主という檻の中に閉じ込め、国家の主人としての義務を尽くしてそれを制御し、監視する責任がある。そうすることは、過去の被害に公道を求めるためだけではなく、より大きな災厄が再び訪れるのを防ぐためでもある。国家安全の名において、私たちが制御できない国家機構を肥え太らせ、人間性と良心をむしばむことを許すならば、悲劇が起こるのは時間の問題である。

8. したがって、一党独裁を終わらせることは、この世代の香港人にとっても、中国人にとっても、避けて通れない責任である。この仕事は、私たち自身によって成し遂げられなければならず、私たち自身にしか成し遂げられない。誰かが外から代わりにやってくれることはない。

9. これは私の誠実な思いであり、信念である。そしてそれは私一人の信念ではない ― 維多利亞公園の30年にわたる燭光がすでにそれを証明している。「一党独裁の終結」は、人民の一線であり、普遍的な要求である。法律が身の程知らずにもそれに挑もうとするならば、恥をかくのは法律の方である。

10. 法廷は、問題は思想の伝播ではなく、いわゆる「敵意の散布」なのだと装う。しかし「一党独裁の終結」の信念は、これまで一度も、敵味方の思考や憎悪の扇動に頼って維持されてきたわけではない。私たちはただ道理を説き、事実を語るだけで、道理をわきまえたすべての人の支持を得るのに十分である。

11. なぜなら、独裁それ自体こそが、最大かつ最も明白な不正義だからである。それは一人ひとりの平等と自律を無視し、道理の通らない統治秩序を強引に押しつけ、自由な市民を選択の余地のない奴隷へと貶めるものである。一党独裁を終わらせるとは、人が人としてもつべき尊厳を取り戻すことにすぎず、この道理は、寝たふりをしていない誰にでも理解できるはずのことである。

12. 道理の通らない者だけが、常に憎悪動員に頼らなければならない ― 私たちにはそれは要らない。自信のない者だけが、何を見ても敵意を見つけてしまう ― 私たちはそのように世界を見ることはない。私たちは、自らが信じるもの、堅持するものに対して、絶対の自信を持っている。独裁が憎悪によってその統治を維持しているからといって、誰もがその手法を採らねばならないわけではないし、世界が本当に憎悪を軸に動いているわけでもない。平等と正義への信念、人間性と真実への尊重は、これまで常に、憎悪よりも強く、そして持続する力であった。

13. 信念は、計算することも、取引することもできない存在である。自らが信じるすべてのために憐れみを乞い、謝罪することは、最も偽善的な行為であり、同じ信念を持つすべての人への侮辱でもある。だから私はそうしない。そうすることはできない。都市を屠殺した処刑人ですら、まだ謝罪に出てきていないのに、いつ私たちの番になるというのか。世界がひっくり返っているとしても、私たちは政権が犯した過ちのために謝罪すべきではない ― 自らもその逆転の一部となってしまうからだ。

14. 過去のすべてについて、私は、私たちの行いが「どれほど深刻か、あるいは深刻でないか」を、犯罪の言葉と概念を用いて分析することを拒否する。もし法廷が本当に何らかの参考を欲するならば、共産党指導の国家安全公署にでも尋ねればよい。彼らこそ本当に、民主と人権のための努力を犯罪の眼で見る術を心得ている。しかもはばかることなく、本件は性質上重大であり、必ず厳罰に処されなければならないと言い続けている ― 自らが司法の独立に干渉しているなどとは、まったく思っていないのだ。いずれにせよ、もし法廷が最終的に私たちの件を「情節重大」と判ずるならば、私はそれを私たちへの賛辞として受け取ろう。なぜなら、それは私たちが本当に何かを成し遂げたことを意味するからである。

15. 自分が信じる使命を見つけられること、共に肩を並べて戦える仲間を見つけられることは、人生における最大の幸せである。だから、私と支聯会と、香港人とが共に歩んできた道について、私は少しも後悔していない。ただ、家族と、私を愛してくれる人たちに苦労をかけた ― 私が許しを請う唯一の相手も、彼らだけである。

16. そして未来について、獄中であれ獄外であれ、私は、民主運動関係者の釈放、八九民運の名誉回復、屠城責任の追及、一党独裁の終結、そして民主的な香港と中国の建設のために、努力し続け、学び続け、自らを充実させ、あらゆる試みを続けていくつもりである ― 民主が到来するその日まで。これは、私が公の場で数え切れないほど行ってきた約束である。燭海の中で犠牲者に立てた厳粛な誓いでもある。私は、言葉に責任を持たない人間になるつもりはない。

17. そうすることが私を永遠の犯罪者にするならば、法律が本当に私たちの信念を受け入れられないのならば、私はむしろ犯罪者となる道を選ぶ ― 良心を裏切る人間になるくらいなら。私は、運命に屈しないすべての香港人とともに、この未完の民主への道を歩み続けよう。

結び

「⁠燭光 海のごとく
人心 濤(なみ)と成り
粉身 岸を拍(う)ち
不平あるかぎり やまず⁠」
— 原文:燭光如海/人心成濤/粉身拍岸/不平不休

本稿は、レイディー・リバティー香港のウェブサイトに掲載する、鄒幸彤氏の陳情陳述(口頭)の日本語訳です。同氏の2026年5月19日の最終弁論については、あわせて「鄒幸彤 最終弁論(口頭)― HCCC 155/2022」をご覧ください。


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