香港国安法後の独立書店――経営環境の変化と海外への広がり
【連載にあたって】
2026年7月15日、香港ブックフェアの初日、香港警察国家安全処は独立書店「留下書舍」と「田園書屋」を捜索し、店主や店員ら5人を「扇動の意図のある行為」の疑いで逮捕した。1976年に開業し、香港の「楼上書店」文化を切り拓いてきた田園書屋は、その後、賃貸契約の満了をもって半世紀の歴史に幕を下ろすことを明らかにした。一方、香港域外に目を向ければ、東京を含む世界各地で、香港出身者による書店が新たに生まれつつある。本連載は全四回にわたり、香港の独立書店がどのように生まれ、何を扱い、どのような力と向き合ってきたのかをたどる。それは一つの小売業の盛衰史ではない。誰が本を選び、誰がそれを読むのかという、言論と読書の自由をめぐる歴史である。
連載目次
第一回 香港の独立書店の形成――1970年代から1990年代まで
第二回 香港の独立書店の独自性――選書と文化空間
第三回 香港の独立書店と中国大陸――政治書の流通と銅鑼湾書店事件
第四回 香港国安法後の独立書店――経営環境の変化と海外への広がり
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一 2019年の抗議運動と香港国安法
2019年、香港政府が逃亡犯条例の改正案を提出すると、容疑者を中国大陸へ移送できるようになることへの不安から、大規模な抗議運動が起きた。法案撤回後も抗議は続き、一部では警察との激しい衝突も発生した。中央政府は、外国勢力の介入や国家安全上の危険が表面化したと主張した。
香港には基本法第23条に基づいて国家安全に関する法律を制定する責任があったが、2003年の立法案は大規模な反対運動を受けて撤回され、その後も成立していなかった。2019年の抗議運動を経て、中央政府は香港の国家安全制度に「不備」があると説明し、2020年6月30日、全国人民代表大会常務委員会が制定した香港国家安全維持法(以下、香港国安法)を施行した。香港立法会を通さず、中央政府が制定した法律を香港に直接適用する形だった。
政治団体や労働組合、報道機関が相次いで活動を停止するなか、書店を取り巻く環境も大きく変わった。しかし、その直後に独立書店が一斉に姿を消したわけではない。民間ページ「漫読香港書店(漫讀香港書店)」の集計によれば、2021年には30軒の新しい書店が確認された。独立書店だけの公的統計ではないが、一拳書館、猟人書店(獵人書店)、留下書舎などが2020年代初めに相次いで開店し、その後も界限書店など新しい小規模書店が現れた。政治環境が変化するなかでも、本を読み、香港の歴史や社会について考えようとする需要があったことをうかがわせる。
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政治環境が変化するなかでも、新しい小規模書店は生まれている。香港国安法施行後に開店した界限書店、これまで独立書店で取り上げて来なかったジェンダー問題、セクハラ問題に力を置いているのが印象的だった。
第二回で見た書店の公共的機能は、香港国安法施行後、より慎重な形を取るようになった。2025年の研究は、書籍の購入や小規模な催しを通じた緩やかなつながりを「静かな市民参加」と捉える。大きな政治的主張を掲げなくても、選書や催しをめぐる日常的な判断が、文化空間を支える行為になったのである。
二 法律と書店経営
この時期の法律を理解するには、二つの制度を区別する必要がある。2020年の香港国安法は、国家分裂、政権転覆、テロ活動、外国勢力との結託を対象とする。一方、香港立法会は2024年3月、基本法第23条に基づく国家安全維持条例(維護國家安全條例)を成立させた。それまで刑事罪行条例に置かれていた扇動関連条文は廃止され、同条例第23条から第26条に置き換えられた。
第24条は、刊行物に扇動意図があると知りながら印刷、出版、販売、展示、配布などを行うことを犯罪としている。政府は法律の内容は明確だと主張する。保安局長の鄧炳強も、書店には販売する本が国家安全を害さないよう確認する責任があり、政府は「禁書」一覧を作らないと説明した。しかし、仕入れ前に照合できる公的な一覧や事前確認の制度は示されていない。海外や台湾から多くの本を仕入れる小規模店が、すべての内容を精査することは容易ではない。
法律だけが書店経営を難しくしているわけではない。高い家賃、読書人口の減少、通販との競争、感染症流行期の人流減少も経営を圧迫した。他方、複数の書店は、匿名の通報後に政府部門の検査や警告を繰り返し受けたと訴えている。上環の見山書店は2024年3月に閉店した。店側によれば、各部門の訪問が続き、店先の舗装部分をめぐって地政総署とも問題になったという。経済的困難と行政上の負担、将来への不安が重なる場合もあり、すべての閉店を一つの原因だけで説明することはできない。
三 書展と刑事捜査
本を読者に届ける機会にも変化が現れた。2024年の香港書展では、一部の独立系出展者が主催者から特定の本を棚から外すよう求められたと報じられた。2025年には少なくとも三つの独立系出版社や書店の出展申請が認められなかった。さらに2026年には、長年出展してきた榆林書店と楽文書店(樂文書店)の参加資格が取り消された。主催する香港貿易発展局は、申請規則に沿って処理したと回答したが、個別の理由は公表していない。政治書を扱ったことが直接の理由だったと断定することはできない。
2026年には、書店を対象とした刑事捜査も相次いだ。3月、複数の報道によれば、一拳書館の責任者と職員三人が、黎智英の伝記などを販売したとして、第24条違反の疑いで逮捕された。6月には深水埗の一店舗が捜索され、猟人書店の経営者とその夫とされる二人が、扇動意図に関する罪と犯罪収益を扱った疑いで逮捕された。
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2026年に関係者が国家安全維持条例第24条違反などの疑いで逮捕された一拳書館(左)と猟人書店(獵人書店、右)。いずれの事件も、2026年8月18日の執筆時点で捜査が続き、裁判所による有罪判断は出ていない。
7月15日には、税関が海外から届いた荷物の中に扇動意図を持つとされる書籍を発見し、警察に事件を移管した。警察の国家安全部門は旺角の二店舗を捜索し、男女五人を逮捕した。政府は店舗名を公表しなかったが、複数の報道は捜索対象が留下書舎と田園書屋だったと伝えた。警察は、押収した本に香港政府、司法機関、法執行機関への憎悪を引き起こす内容があったと主張している。
2026年8月18日の執筆時点で、三事件の被逮捕者はいずれも警察の保釈条件付きで釈放され、捜査が続いている。公開資料では正式な起訴の発表は確認できず、裁判所が個々の書籍を違法と判断したわけでもない。したがって、現段階では「違法書籍」ではなく、「警察が扇動意図を持つと主張する書籍」と記す必要がある。
四 閉店と海外への広がり
留下書舎は捜索の前日である7月14日、経営上の損失、建物をめぐる事情、運営者の健康や家族の状況に加え、何が問題になるのか判断しにくい「一線」を理由に、8月30日で閉店すると発表した。その後、7月29日には営業を暫定的に停止した。店頭の告知は、オンラインで注文した客には別途連絡すると説明している。
第一回で取り上げた田園書屋も、7月の捜索後、賃貸契約が満了した時点で閉店すると発表した。1976年の創業から50年にわたり営業してきた老舗の楼上書店である。ただし、書店は閉店日や詳しい理由を説明しておらず、警察の捜索が閉店の直接原因だったと断定することはできない。
その後も状況は動いている。猟人書店は9月2日、2027年2月27日に期限を迎える賃貸契約が更新されないと発表した。経営者によれば、6月の逮捕後、家主のもとに多数の脅迫的な文書が届いたことが背景にあるという。刑事捜査が直接の閉店命令という形を取らなくても、賃貸借という民間の関係を通じて書店の存続が左右される場合があることを示している。
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営業の一時停止を知らせる留下書舎(左)と、雑居ビルの上階へ続く田園書屋の階段(右)。田園書屋は賃貸契約の満了後に実店舗を閉じる方針を発表した。
一方、香港の書店文化の一部は海外にも広がっている。英国では、2021年に「同呼吸書店」がオンライン書店として始まり、翌年からノッティンガムに実店舗を設けた。香港や台湾の歴史、文学、社会科学の本を販売し、読書会、上映会、子供向けの中国語読み聞かせなども行っている。ロンドンの「一頁舟」は書店ではなく、千冊を超える香港書籍を無料で閲覧、貸し出しする図書館兼コミュニティー空間である。台北では2022年に飛地書店が開店し、香港、台湾や他地域の読者と文化人を結ぶ活動を続けている。
背景には、香港から移住した人々による新しい読者層がある。英国政府によれば、BN(O)ビザ制度の開始から2026年3月末までに、英国外の申請者への発給は累計18万6319件に達した。これは英国在住香港人の総数ではないが、広東語や繁体字の本を必要とする読者層を考える手がかりにはなる。
香港の出版・読書空間は、単純に消滅したとも、そのまま海外へ移転したとも言えない。香港では書店が経済的、行政的、刑事的なリスクを別々に、時には同時に負うようになった。他方、海外の書店や図書館は、香港の歴史、言語、記憶を保存する新しい拠点になっている。しかし、海外の空間は、香港の街で誰でも立ち寄り、本を手に取り、人と出会う場所を完全に代替することはできない。
四回を通じて見えてくるのは、店舗数の増減だけではない。異なる制度の間で本が出会った場所は、やがて店主の選書を通じて読者と文化を結ぶ空間となり、越境する統制に直面した。そして現在、その一部は香港に残り、一部は海外で新しい役割を担っている。変わりつつあるのは書店の所在地だけではなく、香港の本を誰が選び、保存し、次の読者へ渡すのかという条件そのものなのである。
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長年にわたり香港市民をはじめに、中華圏内の人々の出版・読書空間を支え続けてきた田園書屋の店内風景。
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界限書店の留言牆(レノン・ウォール)。読者が残した言葉は、書店が本を売る場所にとどまらず、人と人をつなぐ空間でもあることを示している。
(連載「香港の独立書店」完)