香港人が動いたとき──1989年、支聯会の誕生と民主化支援の広がり
1989年、香港での民主運動の中で「支聯會」成立期の場面。中央で演説しているのは司徒華(香港の民主派指導者であり、支聯會の創設者の一人)。
【連載にあたって】
現在、香港では「香港市民支援愛国民主運動聯合会」(支聯会)とその元幹部・李卓人、何俊仁、鄒幸彤に対する国家安全法関連の裁判が進行中である。開審は2026年1月22日、結案陳詞は5月18日から予定されており、判決は香港における言論、集会、追悼、政治参加の境界線を左右する重要な指標となる見込みである。
本連載は全5回にわたり、1989年の支聯会設立から現在の法廷闘争までをたどり、何が争われているのか、そしてこの裁判が香港社会にとってどのような意味を持つのかを整理するものである。六四の記憶をどう語るのか──その問いは、被告三人だけでなく、同じ出来事を悼んできたすべての香港人にかかわっている。
連載目次
第一回 1989年 支聯会発足、香港で広がる民主化支援
第二回 1990年以後 六四の記憶をつないだ支聯会
第三回 国安法施行後 狭まる社会空間、法廷へ移る争点
第四回 李卓人、何俊仁、鄒幸彤 支聯会を担った三人
第五回 支聯会事件裁判 法廷での争点
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一 1989年 支聯会発足、香港で広がる民主化支援
1989年5月20日に北京で戒厳令が出されたのを受け、香港市民支援愛國民主運動聯合會(支聯会)は1989年5月21日に設立された。この決定は突発的なものではなく、4月の胡耀邦死去以降、香港社会に広がっていた中国民主化運動への共感と連帯の蓄積の上に成立したものである。設立の場となったのは、同日に行われた香港島を巡る大規模デモであり、そのコース終着点である跑馬地馬場で開かれた集会の場で結成が宣言された〔1〕。支聯会の初代主席に就いた司徒華は、1973年に香港教育専業人員協会(教協)を創設した人物であり、1985年からは立法局議員も務め、1985年に北京から基本法起草委員会委員に任命された香港民主派の重鎮であった〔2〕。このような実績を持つ人物が組織の中心に立ったことは、支聯会が単なる一時的な抗議団体ではなく、香港民主運動の制度的基盤として機能する可能性を示していた。
当時の香港はイギリス統治下にありながらも、中国本土と密接な経済的・社会的関係を持ち、多くの市民が中国の将来を自らの問題として捉えていた。そのため、民主化運動への支持は単なる「外部への共感」ではなく、香港自身の将来に対する不安と希望の表れでもあった。なお、六四事件の後、司徒華をはじめとする支聯会の中心人物たちは中国当局から「回郷証(中国本土への入境証)」の発給を拒否され、国門のほど近くにいながら事実上の入境禁止状態に置かれた〔3〕。こうした背景のもとで、支聯会は中国国外において最大規模かつ最も組織化された支援拠点として機能することになる。
1989年、李卓人は市民からの寄付金を携えて北京へ赴き、六四後の撤退時に公安に拘束されたが、その後香港への帰還が認められた。
(写真:李卓人 Facebook)
設立当初の支聯会は、「民主化活動家の釈放」「八九民主化運動の名誉回復」「虐殺責任の追及」「一党独裁の終結」「民主中国の建設」という五大綱領を掲げた〔4〕。これらは単なるスローガンではなく、当時の香港社会が中国に対して持っていた政治的要求を体系化したものであり、短期的な抗議行動と長期的な政治ビジョンを結びつける役割を果たした。この点において、支聯会は単なる支援団体ではなく、越境的な民主運動の主体の一つとして位置づけられる。
まず、支聯会の中心人物たちは、北京の学生運動に対する直接的な支援に関与していた。李卓人をはじめとする関係者は、香港で集めた資金や医療物資、食料などを北京へ送り、天安門広場に集まった学生たちの抗議活動を支えた。さらに、情報の伝達においても香港は重要な役割を果たし、現地の状況を外部世界へ伝える中継点として機能していた。このように、香港と北京の運動は象徴的な連帯にとどまらず、実務的にも密接に結びついていた。
また、支聯会は香港内部における多様な政治勢力や市民団体を束ねる中核的な存在となった。高峰期には、汎民主派の立法会議員の約半数が支聯会の成員と重複していたとされ〔5〕、その包摂力は香港市民社会の幅広い層に及んだ。支聯会はこうした異なる主体を包摂し、「不分派別・不分立場」という原則のもとで統合を進めた点に特徴がある。
6月4日の天安門事件による武力弾圧は、香港社会に大きな衝撃を与えた。その直後、香港では数十万人規模の追悼集会や抗議デモが相次いで行われ、支聯会はこれらの行動の調整と組織化を担った。こうした動員の経験は、翌年以降の毎年6月4日に行われる追悼集会(維園のキャンドル集会)へと制度化され、香港における公共的記憶の形成に大きな影響を与えた。
「民主歌聲獻中華」――1989年、香港の音楽界と市民が連帯して開催した大規模チャリティー公演で、中国の民主化運動を支援するための資金と声援を集めた。(写真:支聯会)
さらに、六四後に展開された「黄雀行動(Operation Yellowbird)」においても、支聯会は中心的な役割を果たした。1989年6月下旬に始まったこの作戦は、中国当局から追われる民主化運動関係者を香港経由で海外へ脱出させるものであり、1997年の香港返還まで継続された〔6〕。英国MI6や米国CIAなど西側の情報機関に加え、フランス外交官、香港の実業家、三合会(トライアド)系の密輸業者まで巻き込んだ異例の広域ネットワークによって支えられ〔7〕、最終的に400人以上の活動家が香港経由で海外に脱出した〔8〕。21人の「最重要指名手配」学生リーダーのうち、少なくとも15人がこの作戦で救出されており、吾爾開希、柴玲、封從德、李録らがその中に含まれる〔9〕。資金は主に香港の実業家や芸能人の寄付によって賄われ、一人の活動家を救出するための費用は50万から60万香港ドルに達することもあったという〔10〕。
このように、支聯会は1989年の民主化運動の中で、香港社会の自発的なエネルギーを組織化し、中国本土との連帯を具体的な行動へと転換する役割を担った。その活動は単なる一時的な動員にとどまらず、記憶の継承、政治的理念の提示、そして越境的なネットワークの構築へと発展していった。支聯会が掲げた綱領と実践は、その後数十年にわたる香港の民主運動の基盤となり、同時に香港という都市が持っていた「中国に対するもう一つの政治的想像力」を象徴するものでもあった。
引用文献
〔1〕「香港市民支援愛國民主運動聯合會」、維基百科(繁体字版)、2025年12月14日更新。
〔2〕「司徒華」、維基百科(繁体字版)、2025年7月3日更新。
〔3〕陳破空「司徒華留下的遺產」、『大紀元』、2011年1月5日。
〔4〕「支聯会」、China Digital Space(中国数字時代)。
〔5〕「香港市民支援愛國民主運動聯合會」、維基百科(繁体字版)、前掲。
〔6〕「黃雀行動」、維基百科(粤語版)。
〔7〕"Operation Yellowbird", Wikipedia (English edition).
〔8〕同上。
〔9〕同上。
〔10〕「黃雀行動 港人義救六四學運人士」、『大紀元』、2019年9月25日。