鄒幸彤 最終弁論(口頭)

鄒幸彤 最終弁論(口頭)― HCCC 155/2022

編集部より:2026年5月19日、バリスター(法廷弁護士)であり、香港市民支援愛国民主運動聯合会(支聯会)の元副主席である鄒幸彤氏が、香港の法廷で口頭による最終弁論を行いました。これは、毎年恒例の六四燭光集会を主催した支聯会の役割をめぐって起訴された事件に関するものです。自ら弁護に立った氏は、検察側の論理を一つひとつ突き崩していきます ― 法が本当に禁じようとしているものは何か、そして憲法とは何のためにあるのか、と問いながら。氏の主張は、「一党独裁の終結」は犯罪ではなく法の支配を求める呼びかけであり、本当に裁かれているのは被告人ではなく法そのものだ、というものです。氏の言葉が法廷の外へと届くよう、ここにその陳述全文を掲載します。

要旨

鄒幸彤氏の弁護は異例です。自らの行為を否定するのではなく、むしろそれを正面から引き受けます。氏は、本件の核心にある言葉 ―「一党独裁の終結」― は国家を転覆させる呼びかけではなく、憲法が守ろうとするもの、すなわち法の支配そのものを求める呼びかけだと論じます。氏は、何かを「終わらせること」と、それを「転覆」あるいは「破壊」することとを明確に区別し、検察側が違法な行為を一つも特定できておらず、支聯会が30年以上にわたって用いた「違法な手段」を一つも挙げられていないことを指摘します。さらに、本件の核心にある矛盾を明らかにします ― 検察側自身の論理に従えば国家しか侵し得ないはずの憲法を、一般市民が侵したと訴えられているのです。氏の結論は、本当に裁かれているのは被告人ではなく、香港の法がなお民主主義と人権を守るのか、それとも「独裁の番犬」に成り下がるのか、ということだ、というものです。鄒氏の言葉は、私たちがなぜ記憶し続けるのかという問いに、まっすぐに語りかけてきます。レイディー・リバティー香港は、六四天安門事件37周年を記念する展示「八九・六四天安門事件37周年記念展 ― 香港・六四・国家安全:記憶が罪に問われるとき」を、2026年5月27日(水)から6月7日(日)まで、早稲田奉仕園 スコットホールギャラリー(東京)にて開催します。展示の詳細はこちら →

📄 結論陳述の原文(英語・PDF)をダウンロード


Ⅰ.序論

1. 刑事事件として見れば、本件はまさに奇妙な事件である。弁護側は、何が起きたかについて一切争っておらず、それどころか被告人が実際に何をしたかについて、多くの追加的な証拠を自ら積極的に提出してきた。被告人は自らの行為を一度も否定したことはなく、また私たちは、自分たちの発言が本心ではなかったとか、単なる誇張された修辞にすぎなかったなどと主張したこともない。私たちはむしろ、口先だけで終わらせたことは一度もなく、自らの言葉と運動上の目標を実践に移してきたと、はっきりと述べてきた。

2. 申し立てられた行為を矮小化したり、出来事から自らを切り離したりするといった、刑事事件で一般的に用いられる弁護戦略は、本件にはまったく見られない。むしろ正反対に、被告人は検察側が犯罪と称した行為を正面から引き受けており、裁判所(および検察側)がより過激に聞こえる表現を用いたときでさえ、被告人はそれに何のためらいも示さなかった。事実が伴っている以上、言葉の選び方など些末な事柄にすぎないからである。

3. 本件における争点の核心が、被告人が何をしたか、何を考えていたかではなく、法が何を禁じようとし、何を守ろうとしているのかにあることは、裁判所にも見て取れるはずである。そしてこの問いに答えるためには、表面的な言葉の比較にとどまることなく、被告人が終わらせようとしたのはいかなる体制であり、憲法が打ち立てようとしたのはいかなる体制であったのかを問わねばならない。

4. 真の核心的な争点は、法が本当に、私たちが民主的な体制移行を目指すことを禁じ、共産党の永続的な支配を擁護するものなのか、という点にある。政府による権力の濫用と恣意的な殺戮を前にして、法は私たちに、不満を呑み込み、それに甘んじていることだけを許し、そのような圧政の終結を求めることは許さないというのだろうか。

Ⅱ.「一党独裁の終結」の意味

5. 結局のところ、「一党独裁の終結」という目標は、抑制なき権力という状態を終わらせることにある。これこそ法の支配が存在する最も重要な理由であり、また世界のいかなる裁判所も守るべき責務でもある。ある裁判所が、こうした言葉を犯罪と断じておきながら、同時に自らを法の支配の守り手だと称することは、不可能である。

6. もちろん裁判所は、被告人が「一党独裁の終結」という言葉を口にしたとき、それは一党独裁を終わらせることを指していたのではなく、その言葉とはまったく無関係な何かを指していたのだ、と論じることもできよう。それを裏づける証拠があるか否かはさておくとしても、要点は、裁判所はその言葉自体が違法であるとか、転覆を含意しているなどと判断することは、自らの職責を同時に否定することなしにはできない、という点にある。

7. 裁判所は認識しなければならない。その言葉における鍵となる語 ―「独裁」― は、空虚な記号でも、単に感情を煽るためだけに作られた用語でもない。それ自体に実質がある。「独裁」および「一党独裁の終結」の意味と向き合うことを避け、それらを単なる犯罪の標識として扱い、この法の支配上の目標を立ち入り禁止の領域と宣言することは、自己否定に等しく、香港の法の支配はすでに死んでいるという主張を補強するだけである。

Ⅲ.憲法の本質

8. 裁判所は、「一党独裁の終結」の意味のみならず、その両者が本当に対立するのか否かを判断する前に、憲法秩序の真の本質をも検討しなければならない。被告人の目的以上に、本件において最も不確かで、最も裏づけを欠き、最も合意の得られていない論点であり続けているのは、憲法それ自体の意味なのである。

9. 憲法と正しく呼びうる文書の目的は、公権力の行使を規律し、それが一般の人々に害を及ぼすことを防ぐことにあり、人々を拘束することにはない。言い換えれば、憲法とは、あらゆる形態の専制を終わらせるために人間社会が発展させてきた道具なのである。

10. もし独裁を終わらせることこそが憲法の目的だとすれば、それを違憲だとすり替えるには、中国の憲法は本来の憲法ではなく、独裁に奉仕するまやかしの文書だと論じる以外にどうしてできようか。そしてこのことは、なぜそれが共産党の権力を制限しないばかりか、かえってその永続的な支配を固定化し、人々を権力の濫用から守るのではなく、市民が不正な権威に異議を唱えることを禁じるためにすら用いられうるのかを説明している。

11. 以上は、実質的に検察側の主張であり、本起訴の根拠でもある。端的に言えば、検察側は、憲法が打ち立てた体制とは立憲主義でも法の支配でもなく、共産党が権力を独占しすべてを差配する体制 ― すなわち典型的な一党独裁 ― だと論じているのである。検察側がその用語の使用を避けたところで、その主張の実質は変わらない。

12. ここで本件の第二の奇妙さに至る。検察側は、私たちが中国を一党独裁と呼ぶのは誤りだと言いながら、他方で、憲法こそがまさにそれを打ち立てているのだと繰り返し論じている。裁判を通じて、憲法が必然的に一党独裁を命じていると言い張ることで憲法を貶めてきたのは、弁護側ではなく検察側であった。これに対して弁護側は、それが憲法の唯一可能な読み方ではないことを、一貫して裁判所に伝えてきた。実際、裁判所は、憲法を、立憲主義の諸原則にまったく反する奇怪な怪物へと不当に仕立て上げるのではなく、法の支配と民主主義の諸原則に適う形で解釈することができるのである。

13. そもそも、憲法とは共産党に至高の権力を与えた解釈なのだと言うために、検察側にはどれほどの根拠があるのか。検察側はほぼ全面的に、ほんの数年前に憲法へ加えられた一文 ―「中国共産党の指導は中国の特色ある社会主義の最も本質的な特徴である」― に依拠している。だが、その一文は「指導」が何を意味するのかを説明しているだろうか。していない。憲法のいずれかの条項が、その指導の範囲、党が何を決定でき、何に干渉してはならないのか、あるいはそうした権力を行使する手続きを定めているだろうか。否。まったく定めていない。憲法全体を通じて、共産党の権力 ― あるいは権力たりうるもの ― についての唯一の記述は、「指導」という一語のみなのである。

14. 「指導」は、これまで一度も実質的な権力や統治する権利と同義であったことはない。例えばチャールズ三世は英国の国家元首であるが、実質的な政治権力をいっさい持たない。それならば、憲法における「指導」という一語が、共産党に対し、国全体を支配し、憲法が設けたあらゆる国家機関を覆し、人民に対して永久に責任を負わないでいられる白紙委任を与えているなどと、検察側はいかなる根拠に基づいて論じうるのか。

15. 例えば憲法は、国家主席が全国人民代表大会(全人代)によって選出されると明文で定めている(第62条)。だが、共産党が全人代を「指導」して選挙を行わせる前に、舞台裏でその結果をあらかじめ決めているのだとすれば、選挙の主導権を握っているのは全人代ではなく共産党だということになる。実際、全人代には国家主席を罷免する権限もある(第63条)。しかし、全人代が党の指導に服し、党の同意なしには行動できないのであれば、その憲法上の罷免権など、死文にすぎない。

16. そしてこの問題は全人代に限られない。それはあらゆる憲法上の機関に及ぶ。憲法は、人民法院(第131条)および人民検察院(第136条)が独立して裁判権および検察権を行使すると明文で定めている。だが、誰を訴追し、いかに裁くかについての決定が、最終的に党によって命じられるのであれば、独立した司法や検察を語ることに何の意味があろうか。

最も危険なのは、党が銃を指揮するという原則 ― すなわち軍は党に倣い、党に忠誠を尽くさなければならないという原則である。私たちは公式のプロパガンダでこれを絶えず聞かされてきたが、この方針はまったく違憲である。憲法の下では、中央軍事委員会(中央軍委)は人民によって選出された全人代に対して責任を負い(第94条)、党にではなく憲法と人民に忠誠を尽くすべきものである。党が銃を掌握し、圧倒的な実力を独占してきたからこそ、憲法は法とともに実権を奪われ、単なる飾りに貶められているのである。

17. したがって、「指導」をすべてに対する支配と見なす検察側の主張は、憲法秩序に何の根拠も持たない。それはむしろ憲法の定めに反している。憲法を、権力に対する制約ではなく恣意的な権力の盾と見なすことは、まさにその本質と目的を転覆させるものである。

18. 実際、党の指導がすべてに優越するという検察側の主張は、いかなる具体的な憲法条項にも根拠を持たない。それはただ、悲しいかな、この国の政治的現実を反映しているにすぎず、しかもその現実は「党の指導」に関する条項が憲法に加えられるはるか以前から、長年にわたって存在してきたものである。それならば、憲法が改正されたとき、起草者は単に既存の現実と、共産党がすでに掌握していた権力を成文化したにすぎない、と論じることもできるのではないか。憲法違反が既成事実である以上、そのような事実が私たちの法を定義することを許してよいというのだろうか。

19. この点で、私が陳述の中で言及した韓国の事例は、まさに本件に関わってくる。それは、憲法の理念が政治権力の現実と乖離したとき、裁判所がいかに応じるべきかをめぐる事例だからである。

その事件は、ちょうど46年前の今日に起きた5・18光州民主化運動から生じたものである。天安門の抗議行動と同じく、それは軍が民間人を殺害し、多くの人々を投獄しながら、その殺戮者たちが権力の座にとどまった事件であった。しかし違ったのは、韓国がその後に民主的な体制移行を遂げ、加害者たちが最終的に裁きを受けたという点である。当時、被告側は、自分たちは権力を掌握し、憲法を書き換え、新たな憲法秩序の下で統治したのだから、その権威は必然的に合憲であると論じた。それならば、どうして憲法を転覆したと訴えられようか、と。最高裁判所はその主張を退けた。いかなる改正が加えられようとも、憲法はその本質において、国民主権、自由民主主義、人権、そして法の支配に基づく法秩序であり続ける、と判示したのである。そのような秩序は、民主的手続きに反して打ち立てられた軍事独裁を、決して正当化することはできない。その文脈において、憲法を真に転覆したのは、権力それ自体が法を定義しうると考えた簒奪者たちであって、戒厳令に抵抗しその精神を守った光州の市民たちではなかった。

20. この判決が示しているのは、権力を握っているということが、必ずしも法の意味についての権威を与えるわけではない、ということである。憲法が真にその名に値するのであれば、それは勝者の恣意的な命令へと貶められてはならない。それらの原則が現実に完全に実現されているか否かにかかわらず、憲法は自らの一貫した不変の原則と精神を体現していなければならないのである。

21. 中国憲法の文脈において、本質的な問いはこうである ― その核心の精神とは何か。それは民主主義と法の支配なのか、それとも独裁と人の支配なのか。もし前者であるならば、憲法の根本秩序を真に転覆しているのは被告人ではなく、長きにわたって民主的手続きを顧みず、国家権力を独占し、さらには憲法改正を通じて自らの独裁を正当化しようとさえしてきた中国共産党である。裁判所がその反対 ― すなわち中国憲法は、その核心において独裁の憲法であり、民主主義と法の支配への言及は単なる装飾にすぎず、一党独裁という優越的原則を覆すことはできない ― と認める場合にのみ、本件が進行する根拠が生じうるのである。

Ⅳ.転覆・破壊

22. 仮に、憲法が共産党の永続的支配の下での一党独裁を打ち立てており、したがって被告人の目的がその枠組みと根本的に相容れないと仮定したとしても、それで検察側はすでに立証を果たしたことになるのか。もちろん、そうではない。検察側が立証しなければならないのは、二つの理論の対立ではなく、「転覆または破壊」という要素の存在、ならびに「違法な手段」の使用だからである。

23. 検察側は、いかなる行為が「転覆」あるいは「破壊」に当たるのかを一度も説明していない。それどころか、繰り返し「終結」に言及し、何の正当化もないまま、両者を同義のものとして扱っている。

24. 辞書をざっと引くだけでも、「終結」が「転覆」や「破壊」と同じではないことは明らかである。あるレストランの閉店は、誰かがそれを転覆したり破壊したりしたことを意味しない。経営者が引退を望んだのかもしれないし、家主が賃貸契約の更新を拒んだのかもしれないし、あるいは事業が時代についていけず淘汰されたのかもしれない。転覆や破壊とは無関係な理由はいくらでもありうる。同様に、私があるレストランを気に入らず、否定的なレビューを書いたり、他の人にそこを利用しないよう勧めたり、あるいは競合者としてその店舗を引き継ごうとしたりしても、それらは必ずしもそのレストランを「転覆」したり「破壊」したりする行為にはならない。そうした行為は、合理的で、正当化でき、合法的な仕方で行われうるものであり、たとえ最終的にそのレストランの「閉店」につながったとしても、客あるいは競合者としての私の権利の範囲内にあるからである。

25. これに対して、もし私が店先で騒ぎを起こすために暴力団を雇ったとか、他者を貶めるために故意に嘘をついた、世論を捏造した、あるいは役員を買収したと申し立てられるのであれば、それらの行為は「転覆」や「破壊」と性格づけられうるかもしれない。

26. だが、本件において裁判所はその種の行為を目にしただろうか。何一つない。それどころか、被告人は事実を、理由ある論証とともに述べていたにすぎない。それらの陳述が事実に基づいていたことは、検察側でさえ否定できない。そうである以上、転覆や破壊などと、どうして言えようか。

Ⅴ.違法な手段

27. 「違法な手段」という申し立ては、さらに不条理である。結審に至ってもなお、検察側はこの不当な「違法な手段」という嫌疑が何であるのかを述べることができず、その一例すら示すことができない。検察側はせいぜい、香港市民支援愛国民主運動聯合会(支聯会)が「『一党独裁の終結』のために、憲法の規定に従って憲法を改正するといった合法的な手段にいっさい言及しなかった」と論じたにすぎない(§60(11))。さらに検察側は、本件において証拠はそうした目的に向けたいかなる合法的手段をも「排除」していると主張するに至った(§13(5))。

28. まずは、立証責任を転倒させ、論理に反する検察側の詭弁はさておこう。仮に私が、あるレストランに対して、その経営者に法的手続きを踏む必要を強調することなく閉店せよと告げたとして、それで私はその者に違法な閉店を扇動したことになるのか。そして、店を閉める法的権限を持つのが経営者だけであるならば、事業を立ち行かなくさせた客としての私の否定的なレビューが、それによって「違法な手段」になるとでもいうのか。

29. 「合法的な手段による憲法改正を呼びかけないこと」と、「一党独裁を終わらせるために違憲な手段を呼びかけること」とは、まったくかけ離れた二つの命題である。いずれも他方のいかなる部分とも等価ではない。総じて、検察側の主張は五つの大きな論理的誤謬を犯している。

(1) 被告人がしなかったことを指摘することによって、被告人がしたことを証明することはできない。そのうえ、検察側は被告人がしなかったことすら、ついに証明できていない。検察側はその点について何の証拠も提出していないのである。

(2) 検察側が一つの合法的手段を特定したからといって、他のあらゆる手段が違法になるわけではない。このように述べることで、検察側は「禁じられていないことはすべて許される」という原則を転倒させているのである。

(3) ある手段を漠然と「違法」と呼んだからといって、それが当然に「違憲」になるわけではない。本件において検察側は、特定されていない法への違反を単に申し立てるのではなく、「違憲性」を証明しなければならない。

(4) ある目標を達成する合法的な手段が存在しないからといって、違法な手段が存在することにはならない。むしろより妥当な結論は、その目的に向けた手段は、合法・違法を問わず、現時点では存在しない、ということである。検察側は、「一党独裁の終結」を実現しうる違法な手段がこの世に存在することを一度も証明しておらず、そのようなものが理論上存在しうる可能性すら論じていない。これに対して弁護側は、一党独裁を終わらせるとは権力を法的制約の下に置くことを意味すると説明してきた。定義上、それは法の支配を通じてのみ達成されうる。いかなる違法な手段もそれをもたらすことはできない。これまでのところ、検察側はこの証言部分に何の反論もしていない。

(5) 実際、検察側が大いに強調する憲法改正は、一党独裁の終結をもたらすものではない。したがって、それを唯一の「合法的手段」と称することは、誤った前提である。当該条項が憲法に挿入される以前から、一党独裁はすでに存在していたのではないか。もちろん存在していた。では、いま憲法を元に戻せば、それが終わるのか。馬鹿げた話である。つまり、憲法の改正は、集会の開催、人権文書の起草、フォーラムの開催などと同じである。それらはせいぜい一党独裁の終結という目標を前進させうるにすぎず、いずれもそれを直接に達成することはできない。一党独裁の終結に向けて取り組む合法的な方法は無数にあり、その大半は、前述の集会や請願と同じく、違法とは到底呼べず、ましてや「違憲」などとは呼べない。したがって、たとえ検察側が憲法改正を排除しえたとしても、他のあらゆる合法的手段までを排除することはできない。しかも証拠は、支聯会が一党独裁を終わらせるための一連の合法的手段を実際に主張していたことを、明確に示している。排除はいったいどこにあるのか。

30. 結局のところ、「一党独裁の終結」とは、法を実効あらしめることの問題である。それは、法や憲法を改正しさえすれば達成できるような目標では決してない。だからこそ支聯会は、その要求を政府による単なる法改正に限定することは一度もなかった。同会はまた、監督機構の設立、説明責任、外部からの監視を含め、法が現実に執行されることを確保するための措置をも求めてきた。最良の保障とは、もちろん、真に自由かつ公正な選挙と、独立した活力ある市民社会を有することである。したがって、私たちが憲法改正を呼びかけたか否か、あるいはそうした改正が現状で可能か否かに焦点を当てることは、まったく的を外している。

Ⅵ.憲法違反

31. 「違法な手段」という要素について、いま述べたとおり、検察側は、あなたの手段は違法であったと軽々しく言い立てることはできない。検察側は、特定の「憲法上違法な手段」が存在することを証明しなければならない。このことはまた、本件の第三の奇妙さを浮き彫りにする ― 憲法に違反したと申し立てられている主体が、なんと一般市民でありうるという点である。

32. この要素に関する検察側の主張は、相容れない矛盾と逆説に満ちている。私は三つの点に絞って論じる。

(1) 憲法、とりわけ第1条への違反は、原理的に、国安法第22条にいう「違法な手段」には当たりえない。

(2) 一般市民は憲法に違反しえない。

(3) 「一党独裁の終結を目指すいかなる行為も必然的に憲法に違反する」という検察側の主張は、明白に誤っている。

33. 第一に、検察側の主張は基本的な法的欠陥を抱えている。中国憲法は、香港においてそのまま全面的に適用されるわけではない。それは必ず現地の立法を通じて効力を生じる。この点については、検察側も弁護側も同意していると私は考える。これはまた「一国二制度」の根幹でもあり、争いの余地はないはずである。

したがって、香港においては、「憲法に違反すること」だけでは、それ自体として「違法性」の独立した申し立てを構成しえない。そのような申し立ては、違反された特定の香港法を通じて間接的に立証されうるにすぎない。しかし、もし検察側が違反されたとされる香港法を特定するのであれば、その法を「違法な手段」の根拠として援用すれば十分である。「憲法に違反する」行為に追加的に依拠することは、余計なのである。

34. 本件において、検察側は、憲法第1条を施行する香港の立法を一つでも指し示すことができるか。できる。それが国安法第22条である。

35. したがって「違法な手段」について言えば、検察側の主張は、被告人が国安法第22条に違反することによって国安法第22条に違反したと訴えられている、というものになる。そのような主張は、一見して笑止である。実際、検察側は、その循環論法を覆い隠すために、「憲法に違反すること」という、一見異なる言い回しを持ち出そうとしているのである。当初から、検察側には、行為のもたらしたとされる結果とは独立した「違法な手段」の論点について、何の論拠もなかった。上位の法令を独立した法的根拠として粉飾し、そのうえで下位の法令から犯罪の構成要件を引き戻して当てはめるというそのやり方は、容認できない。

36. 第二の点は、誰が憲法に違反しうるのか、という問題である。仮に裁判所が、国安法第22条に基づく主張を立てる根拠として「憲法に違反すること」という検察側の用法を認めたとしても、憲法が拘束するのは特定の範囲の者だけである。ところが検察側は、被告人が一般の人々を扇動したと申し立てる一方で、一般の人々は憲法に違反しえないとも認めている。そうであるなら、被告人はどうして、その人々に対し、彼らが本来なしえないことをするよう扇動できたというのか。この申し立ては、女性に女子トイレへ入るよう促すことで、男性の立ち入りを禁じる規則を破るよう彼女を扇動した、と言うのと同じくらい不条理である。

37. 第三に、ある行為が違憲か否かをいかに判断するかという問題について、検察側は最終弁論においてもなお、「一党独裁の終結を目指すいかなる行為」も憲法に違反することに当たる、と主張し続けた(§69)。

この主張が、裁判所がすでに退けた前提1の焼き直しにすぎないという事実はさておくとしても、また、仮に憲法改正を特別に例外とするとしても、一党独裁の終結を目指す他のあらゆる行為が違憲であるということにはならない。その目標を目指す行為とは、いったい何を指すのか。被告人は証言の中で、支聯会の行ったすべてのことが、一党独裁の終結を含むその五大綱領に向けられていたと率直に認めた。検察側の論理によれば、したがって、集会の開催、資金の調達、文書の刊行、あるいは総会の招集など、支聯会のあらゆる行為が、すべて違憲になってしまう。それはまったくの思想犯罪の論理であり、しかも長期的な動機によって適法性を判断するものである。

検察側の「違憲」の解釈によれば、私はすでに憲法に違反していることになる。なぜなら、私は一党独裁の終結を目指して、今なお本件を争っているからである。それならば、なぜ国家安全の当局は、さっさと私を捕らえに来ないのか。

38. 明らかに、何が「違憲」な行為を構成するのかについての検察側の説明は、成り立たない。その主張に一貫した根拠がない以上、検察側は、被告人が「憲法に違反する」と性格づけうるいかなる行為を扇動したことも証明できず、したがって「違法な手段」という要素は成立しない。

Ⅶ.自然かつ合理的な帰結

39. 仮に検察側が、すでに指摘したすべての法的障害を乗り越えられたとしても、裁判所はなお、事実問題として、その扇動のもたらしたとされる結果が、被告人の言動の自然かつ合理的な帰結であったと心証を得なければならない。その合理性という安全弁がなければ、ほとんどあらゆる意見の表明が扇動と称されうるため、扇動罪の法理は、言論の自由と思想の交換を萎縮させてしまうだろう。

40. 弁護側はまた、言葉がそれ自体で何を意味するかということと、特定の文脈でその言葉を発することがいかなる効果を持つかということとは、まったく別個の事柄であることを強調しなければならない。ところが検察側は、一貫してこの両者を混同してきた。

41. 例えば、私が露店を出して人々を六四の集会に誘い、その際に「一党独裁の終結」という言葉に触れたとしても、その催しや発言の自然かつ合理的な効果が、「集会への参加を促すこと」から「違憲とされ、一党独裁を終わらせうるとされる、何か特定されていない行為を促すこと」へと、突如として転じるわけではない。聞き手は、ロボットでもコンピュータ・プログラムでもなく、その言葉に対してあらかじめ設定された反応を返し、語られた他のすべてを無視するわけではない。被告人の言動の自然かつ合理的な帰結を、「一党独裁の終結」のいわゆる意味だけに依拠して定義することは、まったく筋が通らない。

42. さらに、本件における扇動のもたらしたとされる効果についての検察側の説明は、極めて不自然で不合理である。被告人はいったい、他者に何をするよう扇動したとされているのか。「違憲な手段によって一党独裁を終わらせること」だという。仮に私が、今日ここに集まっている方々に向かって、それをそのまま「皆さん、違憲な手段を使って一党独裁を終わらせに行ってください」と言ったとしても、誰もが完全に当惑するだろう。なぜなら、私がどのような行為をするよう促しているのか、誰にも分からないからである。誰も理解できない扇動が、どうして自然あるいは合理的だと言えようか。

43. 実のところ、裁判所は、「一党独裁の終結」という言葉がそれを聞いた人々に及ぼした効果を評価するために、漠然とした記述や推測に頼る必要はない。30年以上の歴史を持つ支聯会こそが、最も強力な証拠を提供している。同会は、この言葉によって最も直接かつ持続的に「扇動」されてきた存在であった。にもかかわらず、長年にわたるその目標の追求の中で、同会が用いた行為や手段のうち、「違法な手段」あるいは「違憲」な行為と呼びうるものが、果たしてあっただろうか。何一つない。検察側は一例すら挙げられない。組織と資源に裏打ちされ、その理想に最も献身的であった集団でさえ、いかなる「違法な手段」にも訴えなかったというのに、いったいいかなる根拠に基づいて検察側は、他者にそうした手段を用いるよう扇動することがその言葉の自然かつ合理的な帰結だと言えるのか。それのどこが「自然」だというのか。

44. すでに論じた客観的証拠を超えて、扇動のもたらしたとされる効果が合理的か否かを判断するにあたっての裁判所の主たる考慮事項は、人権の保護でなければならない。言論の自由を重んじ、公共の事柄への参加を奨励する社会において、不正への批判が、何か特定されていない罪への扇動として軽々しく扱われてはならない。そのような行き過ぎは、しばしば異論を封じ、説明責任を回避するための口実とされる。裁判所が精査を加え、何が「合理的な効果」に当たるのかについて明確な限界を設けない限り、裁判所は政府による権力の濫用と犯罪行為に加担する危険を冒すことになる。

Ⅷ.結論

45. 私が本件において見出した三つの奇妙さは、以下のとおりである ― 第一に、弁護側が犯罪とされる行為を公然と引き受けていること。第二に、検察側が憲法を独裁の道具だと中傷していること。そして第三に、一般市民が憲法に違反する者にされていること。実際、この三つはいずれも同じ根本的な問題を指し示している ― 本件において、善悪の基準が完全に逆転しているのである。真実を語ることが憎悪の扇動と読み替えられ、正義を求めることが苦しみの利用と、権力を制限することが憲法違反と、そして権力を人民に返すことが国家の転覆と読み替えられている。

46. 本件における鍵となる言葉、「一党独裁の終結」は、その本質において法の支配を求める呼びかけである。それは、党が法の上に立つ状態を終わらせ、私たちに本来備わった権利を回復することを求めるものである。当初から、「一党独裁の終結」は、刑事訴追や処罰の対象として扱われるべきものではなかった。むしろ、それは裁判所そのものの使命であるべきなのである。

47. 刑法の言語と分析の枠組みは、刑事司法制度が不正に対処するために設計されているという基本的な前提に立っている。誰かが死に、財産が失われ、あるいは誰かが暴行を受けたとき、法はそこで初めて介入し、誰かが責任を負うべきか否かを判断する。そして、何か悪いことが起きたというこの前提があるからこそ、通常の弁護はそこから自らを切り離すこと ― いや、私はやっていない、知らない、そんなつもりはなかった、等々 ― となるのである。

48. しかし本件には、そもそも前提となる不正など存在しない。正当な行為に刑事犯罪の言語と概念を無理やり当てはめることは、例えるなら、高齢の女性が道を渡るのを手助けすることが詐欺に当たるか否かを分析するようなものである。それは茶番でしかなく、法そのものを歪めることにすらなりかねない。

49. 権力を持つ者が何かを犯罪と決めつけたなら、それが実際に正しかろうと誤っていようと、人は皆、いわゆる刑事責任とその危険を免れるためだけに、回避し、自らを切り離し、責任を否定して、「私ではない」「やっていない」「そんなつもりはなかった」と言わなければならない ― そうした論理を、誰もがただ受け入れなければならないというのか。

50. 被告人の立場は明確である ― 私たちは、正しく公正なことを否定することによって、その論理に同調することはしない。私たちは、一党独裁を終わらせ、民主的な体制移行をもたらし、政権の交代を実現することを求める。検察側がその言説によってこれをいかに犯罪として描こうとも、私たちの立場は変わらず、善悪についての私たちの判断も変わらない。

51. 現時点で唯一なお不明なのは、法がこの状況にどう応じるのか、ということである。私たちの法は、本当に、検察官の思惑のままにねじ曲げられ、作り変えられ、人権の守り手から権力濫用の擁護者へ、正義の擁護者から指導者の意思の擁護者へと変質させられることを許されてよいのか。法はなお民主主義を守ろうとするのか、それとも寝返って独裁に奉仕しようとするのか。独裁が現実である以上、法は二心を抱くことはできない。遅かれ早かれ、法は現実と向き合い、法の支配と独裁との両立不可能性に正面から向き合わなければならない。

52. したがって、本日ここで真に試され、真に裁かれているのは、被告人ではなく、私たちの法そのものである。被告人は、自分たちが何を望み、何のために立っているのかを、よく分かっている。優柔不断であり続けているのは法のほうであり、裁判所の評決は、私たちの法がなお法の支配と民主主義の最低限の一線を守りうるのか、それともすでに独裁の番犬に成り下がってしまったのかを、全世界に向けて宣言することになるのである。


次へ
次へ

Chow Hang-tung's Closing Submissions (Oral)