三人の歩んだ道──李卓人、何俊仁、鄒幸彤の軌跡
支聯会の主要メンバーたち――左から李卓人、何俊仁、鄒幸彤。
【連載にあたって】
現在、香港では「香港市民支援愛国民主運動聯合会」(支聯会)とその元幹部・李卓人、何俊仁、鄒幸彤に対する国家安全法関連の裁判が進行中である。開審は2026年1月22日、結案陳詞は5月18日から予定されており、判決は香港における言論、集会、追悼、政治参加の境界線を左右する重要な指標となる見込みである。
本連載は全5回にわたり、1989年の支聯会設立から現在の法廷闘争までをたどり、何が争われているのか、そしてこの裁判が香港社会にとってどのような意味を持つのかを整理するものである。六四の記憶をどう語るのか──その問いは、被告三人だけでなく、同じ出来事を悼んできたすべての香港人にかかわっている。
連載目次
第一回 1989年 支聯会発足、香港で広がる民主化支援
第二回 1990年以後 六四の記憶をつないだ支聯会
第三回 国安法施行後 狭まる社会空間、法廷へ移る争点
第四回 李卓人、何俊仁、鄒幸彤 支聯会を担った三人
第五回 支聯会事件裁判 法廷での争点
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四 李卓人、何俊仁、鄒幸彤 支聯会を担った三人
以下に、第四節の拡充版を示します。
四 李卓人、何俊仁、鄒幸彤 支聯会を担った三人
現在の支聯会関連事件で、それぞれの被告がどのような立場にあり、どのような争点を抱えているのかを考えるには、まず三人の政治的・職業的経歴を見ておく必要がある。
李卓人は1957年2月12日、広東省潮陽に生まれ、1959年に家族とともに香港へ移った〔1〕。香港大学土木工程学科を1978年に卒業後、工学の道には進まず、病院系列の職業健康センターで負傷労働者と家族への支援に従事し、1980年からは基督教工業委員会に移って労使紛争への対応や大規模な労働争議の組織化に取り組み、労働運動の中心的人物として活動するようになった〔2〕。1990年には香港職工会連盟(HKCTU)の設立に参加し、その後長く秘書長を務めた。制度内政治にも深く関わり、1995年に補欠選挙で初めて立法局議員となり、返還後も2016年まで立法会議員を務めた〔3〕。2011年には工党の結成に参加し、創党主席を務めた〔4〕。
李卓人は支聯会の創設当初から関わり、1989年の天安門事件に際しては香港で集めた資金約1,200万香港ドルを北京の抗議現場に持参しようとして当局に拘束され、「悔過書」への署名を求められた後に釈放されたという経緯を持つ〔5〕。この事件は長年にわたって彼の中国本土への入境を困難にした。2011年には初代主席の司徒華の死去を受けて支聯会主席に就任し、2014年まで、そして2019年から2021年の解散まで再び主席を務めた。李卓人の政治的立場と活動歴は、労働運動、議会政治、中国の民主化支援という三つの領域をまたぐものであった。2025年1月に開始された支聯会の国安法違反裁判では、李卓人は不認罪の立場をとっている〔6〕。
何俊仁は1951年12月1日、香港で生まれた。香港大学法学部を1974年に卒業し、1977年に弁護士資格を取得した後、長年にわたり法律実務に携わった〔7〕。学生時代から社会運動に参加しており、大学在学中には反汚職運動や保釣運動にも関与した。1985年には民主政制促進聯委会の設立に加わって直接選挙の実施と民主的な基本法の制定を求め、1990年には港同盟の創設に参加し、1994年の民主党結成後もその中核を担った。1995年に返還前の立法局議員となり、返還後も1998年から2016年まで立法会議員を務め、回帰前を含め通算20年間の議員経験を持つ〔8〕。1998年には香港立法会の行政長官選挙にも立候補し、最終的に3位で落選した。民主党主席は2006年から2012年まで務めた。
何俊仁もまた1989年の設立以来支聯会の運営に関わった中核人物であり、2014年から2019年までは支聯会主席を務めた。また、法律家として人権案件への取り組みにも長く関わってきた。2006年には中国維権律師関注組を設立し、中国本土の人権派弁護士や人権運動を支援するとともに、中央政府に対して人権の尊重、法治と憲政の確立を求めた〔9〕。2013年には、情報漏洩の告発者エドワード・スノーデンが香港滞在中に法的支援を提供したことで国際的な注目を集めた〔10〕。こうした経歴から、何俊仁の活動は、香港の民主化運動、法曹実務、中国の人権・法治問題への関与を横断するものであったことがわかる。支聯会の国安法違反裁判では何俊仁は認罪の立場をとっており、この点で李卓人・鄒幸彤とは対照的な訴訟戦略を選択している〔11〕。
2014年、鄒幸彤と「劉霞関注組」のメンバー8人が抗議の意志を示すために剃髪し、当時中国本土で軟禁されていた劉霞への連帯を表明した。
鄒幸彤は1985年1月24日、香港に生まれた。蘇浙小学・英華女学校を経て、香港高級程度会考で5Aの優秀な成績を収め、英国ケンブリッジ大学物理学系に進学した〔12〕。その後、同大学で地球物理学の博士課程に進んだが、在学中の2008年に四川大地震が発生した。地震という研究素材に他の研究者たちが胸を躍らせる中、彼女は地震の物理現象ではなく現地での救援活動と被災者への思いに強く引きつけられたという。この経験をきっかけに研究よりも社会への関与を優先するようになり、最終的には博士課程を離れた〔13〕。帰港後は香港大学専業進修学院で法学を学び、2014年に法学専業証書課程(PCLL)を修了、2016年に大律師(廷弁護士)資格を取得した〔14〕。
ケンブリッジ大学に留学していた時期、鄒幸彤(右から2人目)は毎年6月4日に寮でろうそくを灯し、追悼を行っていた。写真は、2009年にロンドンで六四追悼活動を企画した際のもの。
鄒幸彤は2010年からボランティアとして支聯会に参加し、次第に中核メンバーとなり、2016年には副主席に就任した〔15〕。支聯会の内部で組織運営と対外的な発信の両面を担い、後年には同団体を代表する重要な発言者の一人となった。支聯会の外でも、複数の民主化・人権関連訴訟案件に関わり、民主派活動家の法的代理人も務めた。2021年の資料提出拒否事件では逮捕・起訴に至る過程を自らSNSで生中継し、当局の対応を直接批判したことで国際的に広く注目された〔16〕。支聯会の国安法違反裁判では李卓人と同様に不認罪の立場をとっている。
三人の背景をあわせて見ていくと、政治参加に至る経緯も、その方法も、それぞれ異なっていることがわかる。労働運動から入った李卓人、法曹と議会政治を軸に活動した何俊仁、そして自然科学の研究から人権法へと転向した鄒幸彤。こうした違いは、現在法廷で三人が向き合っている訴因や、それに対する応答の仕方、言説戦略の違いを理解する手がかりになる。同時に、次節で扱う法廷上の争点を考えるうえでの重要な背景にもなっている。
引用文献
〔1〕「李卓人」、維基百科(粤語版)。
〔2〕「Lee Cheuk-yan」、The Committee for Freedom in Hong Kong Foundation。
〔3〕「Lee Cheuk-yan」、Wikipedia (English edition).
〔4〕同上。
〔5〕「李卓人」、香港網絡大典(Fandom)。
〔6〕「李卓人Lee Cheuk-yan 最新情況UPDATE」、tenchu.org、2026年1月23日更新。
〔7〕「何俊仁」、維基百科(简体字版)。
〔8〕「香港著名民主人士何俊仁」、禁聞網、2025年12月1日。
〔9〕同上。
〔10〕「Albert Ho 何俊仁」、cn.rinaldipedia.com。
〔11〕「李卓人Lee Cheuk-yan 最新情況UPDATE」、前掲。
〔12〕「鄒幸彤」、維基百科(粤語版)。
〔13〕同上。
〔14〕同上。
〔15〕「邹幸彤」、China Digital Space(中国数字時代)。
〔16〕「在『外國代理人』案中拒絕向警方國安處提交資料,鄒幸彤被定罪」、Front Line Defenders、2024年2月23日更新。